路傍の石
これは山本有三が1936年に書いた作品である。翌年日中戦争が起こり時の政府は「児童読物に関する指示要綱」を発表、民主主義を表わす内容のいっさいの読物に圧力をかけ禁止した。この作品は、人間に対する差別を批判し、人間の尊さを守り、力強く生きていくことを理想とする内容であったが、時局に迎合できない有三は、1940年に筆をおり、未完のままに終止符が打たれた。
彼は「ペンを折る」の中で「時代の認識に調子を合わせようとすれば、ゆがんだ形のものを書かねばなりません。…あの作品は路傍に投げ捨てるよりほかありません」と書いているようだ。
主人公の愛川吾一は貧しい家庭に育ち、小学校を出ると呉服屋へ奉公に出される。父庄吾は武士だった昔の習慣に囚われて働きを嫌い、母おれんが内職で生計をたてていたので、吾一は中学進学を断念したのである。希望していたが、母の苦労を見てあきらめる。その後、母親が手仕事で注文を受けていた呉服屋から丁稚奉公にと話があり、勤めることになる。そんな中の一場面がある(東映から家城巳代治監督により1964年6月「路傍の石」映画化)。
一番で高等小学校を卒業したものの、前途に希望を失った吾一は、卒業式の帰り道いつもの河原にやってきて呆然と立っていると、突然、クラス担任の次野先生に呼び止められた。「中学へ行けないんです」と一言発した途端、胸から悲しみが突き上げてきて、激しく泣きじゃくってしまった。しばらくして、次野先生は、「愛川、おまえの名前は何というのだ。ここに書いてみろ」と静かに話し掛けた。吾一は言われるままに、先生の拾ってきた石で「吾一」と書いた。
「吾一か、実に良い名前だ。吾一、おまえは自分の名前の意味を考えたことがあるか。吾一というのは、“我は一人なり”世界に何億の人間がいるかも知れないが、愛川吾一というものは、世界中にたった一人しかいないのだ。だが、一人ぼっちとは違う。仲間はたくさんいる。先生もおまえの仲間だ。千万人行けども我行かぬ。たった一人しかいない自分をたった一度しかない一生をほんとうに生かさなかったら、人間生まれてきた甲斐がないじゃないか。福沢諭吉は言った、『学問は米を搗きながらでも出来る』って。これからのおまえの人生はおまえのこの二つの手で切り開いて行かねばならい。分ったか」。
次野先生の言葉は胸にずしんとくるものがあり、吾一はこっくりとうなずいて川の水で顔を洗うと、「ようし、やるぞ!」と勇気が沸いて来た。




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