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11/24/2007

明るみに出た嘘

   マハトマ・ガンジーの孫で、非暴力による生き方の研究所を設立したアルン・ガンジー博士が、プエルトリコ大学での講演で次のような話をされた。当時、わたしは16歳で、両親と一緒に祖父が設立したある研究所の中に住んでいました。南アフリカのダーバンから18マイル離れた僻地で、近くに誰も住んでいませんでした。私は、町に出かけて友達を訪問したり、映画を見たりすることが大好きでした。ある日父は、まる一日かかる講演会に出るために、町まで車で連れて行ってほしいと私に頼みました。私はこのチャンスを喜んで承知しました。父は町にいる間車を修理工場に預けて欲しいと頼み、別れる時に、「またここで、午後5時に会って、一緒に家に帰ろう」と言いました。私は頼まれたことをさっさと片付けて、近くの映画館に行き映画に夢中になって、時間のことなど忘れ、午後5時半に突然時間に気づき、車の修理工場に走って行って、父の待ち合わせた場所に急ぎましたが、6時になっていました。父が心配そうに、「なぜ遅くなったの?」と聞きました。私は恥ずかしくて、映画を見ていたとは言えず、車の修理がまだ終わっていなくて待たされた、と言ってしまいました。しかし、父はもうすでにその修理工場に電話していたのです。私が嘘をついたことに気づいて、父は言いました。「私の教育は間違っていた。あなたが私を十分に信頼していたら、本当の事を言いえたはずだ。何が間違っていたのかを反省したい。そのことを考えながら、家までの18マイルを私は歩こう」父はよそ行きの服と靴のまま、舗装されていない真っ暗な道を歩き始めました。私は父をそのままおいていくこともできず、5時間半、父の後ろから、ゆっくり車を走らせました。こうしてずっと、私の愚かな嘘のせいで苦しんでいる父の姿を眺めることになったのです。この時から私は、決して嘘をつかないと決心しました。そしてたびたび、この出来事を思い出して考えます。私たちが普通、嘘をついた子どもにするように、父がこの時私を叱っていたならば、私は学んだでしょうか?きっと本当の意味は判らなかったでしょう。罰を受けてからも、同じことを繰り返していたでしょう。非暴力のこの行動は、昨日起こったことのように私の記憶に強く刻まれているのです。これは非暴力の生き方なのです。これは東京練馬区のイエズス会神学院ホームページにあった記事で、深く教えられたので、ここにご紹介する。

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11/13/2007

空気を読む

Dscf0011  先ごろ「YK」という流行語があったが、これは「空気を読む」ということで、中学生や若者たちの間で起きる「いじめ」などで問題になっているようだ。いい意味でも悪い意味でも状況判断が出来ないことを指している。首相辞任の時に揶揄されたようだ。「対面コミュニケーションは苦手だが場の雰囲気をつかむことには敏感。これができないといじめにあう」という訳である。本来は現象をじっくり観察して判断することである。囲碁や将棋などでは先の先をじっくり考えて「手を読む」のに近く、「状況を把握しようとアンテナを張った気構えとか」、新聞のコラムに書いてあった。

  旧約聖書創世記6~7章にノアの洪水物語があるが、この時代の人々はノアに告げた神の警告に全く無関心で、ひとりノアだけはアララト山上でやがて全ての命を飲み込む洪水の襲来に備えて箱舟を作ったことが出ている。その期間はおよそ100年であった。

この時「空気を読めない」人々のことが、マタイ福音書24章38-39節に次のように記されている。「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。」

  いま人類が地球レベルで直面している危機的状況と同じではないか。鋭い感覚と見抜く力を与えられたいと祈るものである。

   

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11/03/2007

霊肉二元論

 人間の捉え方に「霊肉二元論」というのがある。東洋思想は概ねそうであり、仏教など肉体は滅び朽ちていくが、魂(心霊)は極楽浄土に行くという。尤も魂とは何か明確ではないが、肉体を持つ現世の無常から脱却することが悟りだと説いている。ギリシャ思想も二元論である。これにキリスト教信仰も影響されて、二元論的な理解に陥りやすい。しかしイエス・キリストの復活信仰は二元論ではない。最近読んだヘンリ・J・Mナウウェン心の奥の愛の声」にあった一文をここで引用する(33~34ページ)。肉体を安住の地へ 神は、肉体と精神の区別なく私たちの総体を愛したいとお望みになる。私たちは年ごとにますます、肉体こそ征服すべき敵だと思うようになった。しかし神は、復活にそなえて私たちが肉体を味方にすることを望んでいらっしゃる。…。 では、肉体を安住の地へつれもどすには、どうすればよいのか。愛を受けいれ愛をあたえたいという、私たちのもっとも深い欲望に参加させてやればよいのである。肉体には、抱かれること、抱くこと、さわられること、さわることが必要なのだ。こういう欲望はすべてけっして軽蔑したり、否定したり、抑圧したりすべきものではない。ただし肉体の深部にある欲求、つまり純粋な愛をもとめる欲求は、探し続けなくてはいけない。愛をもとめる肉体の浅薄な諸欲を克服できるごとに、私たちは肉体を安住の地へつれもどし、統合と単一化に向かっていくのである。 神はイエスにおいて、人間の肉体をおもちになった。聖霊がマリアを訪れたとき、彼女において霊と肉のあらゆる争いは克服されたのである。こうして聖霊は人間の霊と一体となり、人間の肉体は、復活をつうじて神を知ることになる高貴な運命の神殿となったのだ。すべての人間の肉体に、新たな希望があたえられた。永遠に、それをお造りになった神のものとなるという希望である。神が肉となられたおかげで、私たちは肉体を安住の地へつれてゆくことができるのだ

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