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05/22/2008

神の名を呼ぶ

Dscf0027  祈祷会で、加藤常昭著祈りへの道」を通読しているが、第8章「聖化される祈り」の本文に、心に留まった文があったので、少し引用したい。

 「神の名を知らなければ、祈ることはできません。しかし、神の名をちやんと知って、呼ぷことができるようになったら、その神の名を呼ぷだけで、そこに関係が成り立つのです。丁度、自分の好きな母親がそばにいてくれて、「お母さん」と呼べば、はっきり返事をしてくれなくても、こっちを向いてくれるのと似ています。それ以上の会話はいらないでしょう。親子の間には、それで通じるものがあるのです。…略…私どもと神さまとの間にも似たようなところがあるのではないでしょうかアッシジのフランチェスコという人のことは御存じでしょう。この人の最初の弟子になったの、ベルナルドという人でした。この人は、富裕な商人でしたが、ある時、自分の家にフランチェスコを招き、自分の寝室に一緒に寝てもらいました。彼が眠ったものと思ったフランチェスコは、起き上がって祈りを始めました。それは、「わが神よ、わがすべてよ」という言葉だけの祈りでした。それが朝まで続いたのです。この祈りを眠ったふりをしたまま聞いたベルナルドは、そののちに弟子になる決心をしたと言います。

 このよく知られた物語も、祈りとは、何よりも神のみ名を呼ばせて頂くことであるということを、よく示していると思います。もし皆さんの中で、祈ることはむずかしい、特に祈りの言葉を見出すのがむずかしいと思っておられる方があれば、神の名を呼びさえすればよいのだということを、一度よく考えてみてくださるとよいと思います。神の名を呼びさえすればよいのです。少なくとも、祈りはそこから始まります。」

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05/05/2008

生きる意味の発見

 浜松医大附属病院心療内科医の永田勝太郎さんの対談記事が朝日新聞に載っていた(0853)。タイトルは「生きる意味に気づく

永田さんはスイスの精神科医ビクトル・フランクルとの親しい交流があった方である。フランクルよく言っていたのは「どんな人間にも意味がある。その意味に向かって突き進むときに人間らしさが発揮される周りの人にできるのは、その意味に一緒に気づくこと」という。

ある時ふと浮かんだのが、学生時代に読んだフランクルの『夜と霧』でご本人に手紙を書いたら返事が来て「ウィーンにいらっしゃい。ホテルに着いたら電話を」。ふっとんで行った。それから亡くなるまでの十数年、休みがとれると会いに行ったそうだ。“先生は、ささいなことでも笑いに変えるユーモア精神の持ち主。一方で、ご自宅には、アウシユビッツで亡くなった人を運ぶ絵がかけてあった。自分に起きたことは、事実は事実として、どこかクールにみていた。先生が亡くなった翌年、僕は末梢から筋肉が萎縮して力が抜けていく病気で寝たきりになった。寝返りも打てない。温泉病院に転院して毎日リハビリしたが、良くならない。もうダメだ。先生の奥さんのエリーさんに「ごめんなさい。先生の元へいきます」と手紙を出しら返事が来て「彼がいつも育っていた言葉を贈ります」。〈人間は誰しも心のなかにアウシュビッツを持っている。でもあなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望しない

何百回も読み返した。心のなかのアウシエビッツとは、生死を分かつような苦悩のこと。もしまだ僕を待っている何かがあるとしたら、何だろうか。それは医学教育だと思った。約2年休んで復帰した。多くのものを失ったけど、いまは杖もいらない。

いま、生きていてよかったと思うことは何か。それは医療職にとって一番避けたい話題は死。「先生私、死ぬんですか」って聞かれたとき、答えられない。だけど、いまは言える。「いいか、これは医者として言うんじゃない、人間として言うんだよ。僕は三途の川まで行って来たからね。だから今、生きていることが楽しくてしょうがないよ。あんただって今、生きてるじゃねえか」と。

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